PAGE

 誰でも自分には心があることを知っています。ただし、ここでいう心とは、やさしいとか思いやりとかという道徳的な意味を含んだものではなくて、普通に感じたり、考えたり、想像したりする人の精神作用としての心の意味です。自分に心があるように、相手にも心があるということが分かるようになるのは4歳頃からだと言われています。それを試す実験があります。

 赤い箱と青い箱を用意して、幼いA君とB子さんの前でお菓子を赤い箱の中に入れてフタをします。その後、B子さんだけ部屋の外に出てもらって、その間にA君の目の前でお菓子を青い箱の方に移します。そして、A君に対して「B子さんが戻ってきたらどちらの箱を開けるだろうか?」と質問します。A君が「青い箱」と答えたら、A君は相手(B子さん)に心があることを理解していない、つまりA君にはまだ心が育っていないとみなします。「赤い箱」と正しく答えた場合は「心の理論」ができていることになります。

 このように、人には「心の理論」があるので行動を起こす前に、相手がどう考えるかを推測することができるのです。

 4歳頃に身に付ける心はいわば持って生まれた能力ですが、

その後親や大人から教えられ身につく心があります。それが優しい心とか思いやりの心とか言われているものです。

 皆さんも子供の頃「我がままを言ってはいけません、聞きわけのない子、分からず屋」等と

 叱られたことがあるでしょう。このような社会的な心は親からのしつけや仲間

 と喧嘩したり仲直りしたりという自分の経験の中で身につくものです。

 弱い者をいじめる子は、相手の気持ちを推測できない子です。いじめの傍観者もいじめられている子、いじめている子両方の心を推測できない子です。絶対してはいけないことをしている子、されている子を見たら、まず自分の中にある心のことを思い出してください。そしていじめをなくすために何らかの行動を取ることができたら、あなたには道徳的な意味の心が育っていると言えるのです。



 私(管理人)は大人になってから『人には皆心がある』と思い知らされる毎日です。

 猿や人には、相手の動作を真似るための「ミラー・ニューロン」という細胞があると言われています。「ミラー」は鏡、「ニューロン」は神経細胞です。相手の動作を目にすると、ミラー・ニューロンが働いて無意識に相手の動作を真似したくなる、また実際に真似をしてしまいます。この習性は、群れで生活する霊長類にとっては「あなたの存在を認めていますよ」と相手にサインを送ることになり、集団の和を保つ上で効果的です。

 このように、ミラー・ニューロンは人類のために役立っています。皆さんも、授業で誰かがあくびをするのを目にすると、ついつられてあくびをしてしまったということはありませんか。また、「あっち向いてホイ」のゲームで勝つコツは、先に自分の顔を相手の顔を向けたい方向に素早く動かすことです。

 しかし自己を自覚し、個性を持つようになった現代人としては、周囲に気を遣いすぎることは自分へのストレスとして跳ね返ってきます。「和」と「個」のバランスが大切です。

 和を重視しすぎる人が、個を取り戻すためにどうすればよいでしょうか。

 まず、自分の個性に気付くことです。「自分は何が好き(だった)か」「自分は何が得意(だった)か」「自分は何をしている時が楽しいか」「自分は将来何をしたいと思っているか」「自分は、自分は…」というように、徹底して自分を中心に据えて考えることです。独楽(こま)のように、回転し続ければ倒れない自分の軸を見つけることです。見つけた軸は自分自身のものです。他の独楽があなたの軸を中心には回れないように、あなたも他人の軸を中心に回ることはできません。無理に回ろうとするから弾き飛ばされるのです。

 次に、自分の意思を相手に伝えることです。嫌なことは嫌、できないことはできないと言葉にして自分の意思を外に出すことです。本人に直接言えない時は(怖くて!)、誰にも聞かれないところで大声で悪口を言うことも効果があります。私の知り合いの〇〇先生が、気にかけていたある生徒が、校舎の裏に一人で行くのを見てこっそり後をつけてみると「〇〇先生のバカ野郎」と大声で叫んだ後、すっきりした顔になって去っていったということです。部屋にある古いぬいぐるみのおもちゃにどなったり、壁に投げつけたりすることも効果があります。とにかく自分の感情を外に出すことが大切です。

 友達や親、先生に話すことも大変よい事です。適当な人が思い当たらない場合は、スクールカウンセラーがいます。スクールカウンセラーは話を聴くプロですから、いつでも皆さんが話に来られるのを待っています。



「あなたの長所と短所を三つ挙げなさい。」と言われると、大方の人は短所の方がすらすらと出てくるものです。そして、短所は無くしたいと思うものです。

 しかし、せっかく持って生まれてきた短所を簡単に無くすのは勿体ないと思いませんか。逆に短所を活かそうではありませんか。

 その方法に「リフレーミング」があります。リフレーミングとは、視点や枠組みを替えて物事を見直すことです。同じ絵でも額縁を取り替えてながめると別の絵のように見えるものです。

 例えば「消極的な性格」は、普通は短所とみなされていますが『奥ゆかしい、周りの人を大切にする性格』と考えると、無くしてはいけないものになります。「飽きっぽい」は『好奇心旺盛、物事への興味関心が幅広い』、「出しゃばり」は『お世話好き、世の中のことに積極的に関わる』と考えると立派な性格です。

 自己実現という言葉があります。自分が持つ可能性を見つけ現実のものにすることです。

 自分の可能性を見つけるというといかにも難しそうですが、すらすらっと出てくる短所は、もう見つけている自分の可能性ですから自己実現は簡単です。




            まだ半分しか終わってない。

 今回は、少し難しいテーマです。

 「物の理」とは物質が従う理論のこと、「心の理」とは人の心が従う理論のことです。両者には、出発点からの根本的な違いがあります。物の理の学問である物理学では、物自体の意思の存在は認めず、物がどのように運動するかは全てそれが接する外部の影響の結果として説明します。地上の物体が落下するのは、物体が落ちようとする意思(性質)

 を持っているからではなく、物体が地球から引かれているから落ちるのだと、外部の原因の結果として運動を説明します。

 一方、人の心にはまずその人自身の意思があり、(周囲の影響を受けながらであれ)自分の意思で行動を決めていくものだという前提があります。

 従って、その根本のところを忘れて、周囲のことばかりを気にしたり周りの人の言われるままに動いたりしていると、心が疲れ、集団の中にいることが苦しくなってしまいます。

 ネットのブログに「集団の中にいると不安であった自分が、『ぼくはここに』という詩を読んで、ようやく自分はここにいていいんだと胸に落ちてきた。…生きるって素晴らしいことを教えてくれました。」という30代男性の感想文がありました。以下、その詩を載せます。作者は「まど・みちお」です。

           ぼくはここに残ります。

 こだまでしょうか      金子みすゞ


 「遊ぼう」っていうと

 「遊ぼう」っていう。

    

 「馬鹿」っていうと

 「馬鹿」っていう

 

 「もう遊ばない」っていうと

 「遊ばない」っていう。

 そうして、あとで

 さみしくなって、

    

 ごめんね」っていうと

 「ごめんね」っていう。

 

 こだまでしょうか、

 いいえ、誰でも。



 1996年にイタリアのリッツォラッティは、人類が誰とでもこだまのように響き合う能力を持っていることを証明する脳細胞の存在を偶然に発見しました。マカクザルを使って脳の活動を計測中、彼が昼休みにアイスクリームを食べていたところ、それを見たマカクサルの脳内で、食べる時に活動するある細胞が反応していることに気付いたのです。つまり、相手の行動を見ただけで自分も同じ行動をしていると感じ取る細胞を見つけたのです。鏡に映すみたいと、後にミラー細胞と名付けられました。誰かのあくびを見ると、自分もあくびをしてしまうのはミラー細胞の仕業かもしれません。

 他の人の話や行動に共感したり、一緒に行動することに楽しさを覚えたりするのは、

 このミラー細胞と関係があるように思われます。他の人と共にあることがいかに大切であるか、今、皆さんもコロナ感染のステイホームの中で日々感じていることでしょう。

 金子みすゞの名前は皆さんも知っているでしょう。『私と小鳥と鈴と』の詩で有名です。山口県の仙崎村に生まれ、昭和5年に26歳の若さで亡くなりました。ミラー細胞の存在を、科学的な発見の前にこんな素晴らしい詩に残してくれていたのです。

 コロナ禍の中で、皆さんは様々な困りに直面していることでしょう。先生方も同様です。自宅待機や学校行事の中止で大変な思いをして卒業した3年生に、横浜市立桜丘高校の先生が、次の短歌を贈ったという新聞記事が目に留まりました。

 < 白マスクの上の静かな目を見れば、何とかしなきゃ、しなきゃ、と思う >

 この気持ちは、皆さんが日頃接しておられる先生方も同様です。


有隣(徳のある人の周囲には同じ様な人が自然に集まってくる)本サイトの管理人は富永有隣が収監されていた石川島監獄の跡地に住んで居ります。

 谷川俊太郎の詩『春に』の出だしの一節です。合唱曲として中学校の卒業式で最も歌われる曲の一つですから歌ったり聴いたりしたしたことがある人は多いでしょう。少年の思春期の微妙に揺れる心を表現した詩です。

 さて、新型コロナの中の私たちには「この息苦しさはなんだろう」と問いたくなるような日々が続いています。先日、私も次のような経験をしました。

 県南に用事があって、家からバス停に行く途中でマスクを忘れたことに気付いたのですが引き返す時間がありません。駅のコンビニで買えばよいとそのままバスに乗りましたが、この様なときに限ってマスクは売り切れで、結局バスと電車合わせて1時間半ほどをマスクなしで過ごしました。この間、周りの人は私を見てどう思っているのだろうかと気になって仕方がありませんでした。たまにマスクをしてない人を見つけるとホッとして親近感を覚えてしまいました。

 私には周囲の人の思いは皆と同じでないことを非難するかのように、異分子を排除するかのように思えました。マスクをしているときも、周りのマスク姿には異様さを感じます。1年前までは電車に乗っても街を歩いても感じたことのなかったのに、あの頃の心の平穏さはどこに行ったのだろうかと懐かしく思ってしまいます。



             春

 あなたにとっての命とは何ですか。医学や一般論としての命ではない、あなたにとっての命があるはずです。

 まど・みちおの作品に「ノミ」という短い詩があります。



 ノミとゾウの対比から、ノミが他のものであったら存在しなかった、のみであることのすばらしさが表現されています。何が素晴らしいのかについては、一言もいっていません。存在自体が素晴らしいといっているのです。まど・みちおさんの詩には、そのものの本質を突いたものが少なくありません。「ノミ」という詩も、あらゆる生物の存在の特殊性と個別性に関わる本質をついているといえます。

 存在の価値は、他と比較することからではなく、そのものが存在していること自体から生じているものです。あなたが今、あなたのことを考えたとしたら、そこで知覚した「あなたらしさ」の中に価値があるのです。たとえそれが一時的に辛く苦しく思われるものであっても、それがあなたの命です。だから、そのままのあなたを受け容れて、今

 あるがままのあなたでいていいのです。

 思春期は「自分を社会の中に置いたとき、どんな位置にいるのか?他者から自分はどのように見られているのだろうか?」という、いわゆる自分探しの時期であり、高校時代がその真最中に当たるといわれています。探し始めは何事でもすぐにはうまくいかないものです。自分の好きなこと・嫌いなことは何だろう、何をしている時が一番面白いのか・耐え難いのか、他人よりうまくできること・できないことは何だろうかなどと、一つひとつ考えていく内に、すこしずつ自分が見えてきます。そのトンネルの先に微かに光って見えてくるものが、あなたの命です。まずあなた自身がそれを大切にしましょう。

 ※「まど・みちお」…明治24年生れ、今年2月28日、104歳で亡くなりました。詩人。「やぎさんゆうびん」「ぞうさん」「1ねんせいになったら」等の童謡で知られています。1994年国際アンデルセン賞を受賞。



            ししゅんき

 かくれんぼ遊びのポイントは、じっと潜んでいる安心感と見つかる時のドキドキする緊張感という対照的な二つの感情を味わえるところにあります。

 前者においては幼少期の安心感を体験しているのです。

 幼少期はまだ「これが自分」という自己意識が育っていないために、自分の居場所はどこだろうなどと考えることはありません。不満や反発して一番落ち着くところは暗い押入れの中や誰にも見つからない隠れ家でした。

 「居場所」とは「いるところ」、時には「自分がそこに居ていい場所」のことです。そこでは気持ちがホッとして安らぎます。

 クラスや部活、近所や友達グループの中に自分の居場所がないと感じたりすることがあります。




            もーいーかい

 気分が落ち込んだとき、自分に自信が持てなくなったときに少し気持ちをもち直すいい方法があります。「いいこと日記」を書いてみることです。

 日記というよりもメモ程度の簡単なものです。毎日、ちょっとでも「あっ、良かったな」と思ったことを三つ書いてみます。「お昼に食べた〇〇が意外と美味しかった」「学校の帰りに見た景色が美しかった」「子供の頃の楽しかった遊びを思い出した」など。

 マイナス思考や不安を感じているときは放っておくとますます暗い方へ考えが流れてしまいます。心が下り坂になっている時なので、早く気づいて前向きに入れ替えないとズルズル下がるばかりです。ちょっとでも良いことがあったことに気づくことで心のギアを切り替えることができます。

 人が自信をなくすのは、他人と比べるからです。しかも他人は大勢いますから、それぞれの優れたところを自分と比べていたら、自分の方が劣って見えるのは当然です。自信を無くすことは自分を無くすことにつながります。人の意識は自分から抜け出ることはできませんから、自分を無くしたら客観的な世界が無いも同然です。心が暗くなるのは当たり前です。そこで、自分に起こったちょっと良いことを考えると、それが暗闇の中の灯りとなって辺りが見えるようになり、自分を取り戻すことができる様になるのです。

 この世に二つとない自分自身の復権を!




         幸せは小さいほど善い

 他人のあくびを見て、自分もつられてあくびをしたことはありませんか?つられてしまった理由は、あくびの情報が目から脳に達して、脳の中でミラー細胞が働いたためです。

 ミラー(鏡)細胞とは、他者の動作を見ると無意識の内に同じ動作をしたくなるように働く脳内の細胞です。1990年代の初め、イタリアの脳神経学者のグループが研究中に偶然見つけたものです。その後の研究でミラー細胞は動作の真似だけでなく、他者への共感能力や自己を意識する能力の形成に関わる重要な意味のある細胞であることが分かってきました。悲しい状況にある人を見ると自分も悲しく感じたり、会話のジョークで皆が一斉に笑い出したりするのもミラー細胞の存在があるから、ということになります。


 このような働きを持つ細胞が人に備わっている理由について、様々な議論がなされました。最も有力な解釈は「人と人のコミュニケーションをより濃密なものにする」ためであるというものです。仲間同士の意思伝達がうまくできなければその種は滅びるしかありません。猿にみられる毛づくろいもその一種で、仲間のコミュニケーションに欠かせない習性の一つです。人は一人では生きていけないとよく言われます。これは物質的な意味だけでなく、精神的にもミラー細胞の機能を無視するような状況に置かれることに、人は耐え難いと感じるからとも言えます。


 このようなことから、人間の脳はもともと人は他者と共感し同化しょうするように造られていると言えます。それはあなたでも、近くのあの人でも全く変わりません。その証拠に「お早う!」と言ったら「お早う!」、「さようなら」と言ったら「さようなら」と返ってくるはずです。


 ミラー細胞の活用は、あなたも人類をも幸福に導いてくれます!

 あくびが出そうになったら、ミラー細胞が働きそうな人が近くにいないことを確かめてからにしましょう。あくびもうっかりできませんね。

 これまで膝を擦りむいたり切り傷で絆創膏を張ったりしたことのない人はいないでしょう。同じように、人は誰でも人間関係の中で心にも傷を受けながら生きているものです。

 体の傷は消毒や体に備わった修復力でよくなります。心の傷も心に備わった回復力や他者の温かい関与でよくなります。そして体も心も受傷とその回復を繰り返すことで免疫力が高まり強くなって行きます。

 回復力はどこから来るのでしょうか?まず体の回復力を考えてみましょう。皮膚が傷で出血すると、血を固めるために血小板が傷口に集まり、バイ菌をやっつけるために白血球が増産され、痛みが何時までも続かないように脳の指令で神経伝達物質が放出されます。これらは生命維持のために、全て体が自律的に反応して行うものです。

 心の回復力とは何でしょうか。それは心に信頼感が根付いていることです。

 まず、自分自身に対する信頼感です。今自分が感じている楽しいこと、面白いこと、興味をひかれること、やってみたいこと等を絶対的に正しいものと信じることが自分への信頼感です。それに時間やエネルギーを使うことで自信が持てるようになり自分の良さに気づき自分への信頼感が高まります。

 つぎに、他者への信頼感です。これは赤ちゃんの頃から子ども、児童、生徒と成長してきた過程で接してきた人にどれだけ信頼されていたかという経験で決まります。「お母さんて、いいな」「お父さんて、いいな」「おばあちゃんて、いいな」「友達って、いいな」「クラスって、いいな」などなど、「人っていいな、世の中っていいな」という経験からできるのが他者への信頼感です。

 社会生活をするようになってからの他者への信頼感は、メンバー同士の中でできたり壊れたりします。一度でも信頼感の持てる仲間集団を経験した人は、安心感を持つことができてその後の対人関係をスムーズに送ることができるようになります。

 中学生の頃までは、似た者同士でグループが形成されますが、高校生の年代になると自分とは違った人や知らない人への興味が湧いてくるものです。グループ内だけに関心を閉じるのではなく、周りにも目を向けて日頃接する集団の中に信頼感が形作られて行くといいですね。将来、もし心が傷つくようなことがあっても、きっとその経験が回復力として生きてくると思います

 人には体と心の成長があります。体の成長は遺伝や栄養の影響が大きくほぼプログラム通りに進みますが、心の成長には環境要因(親・家族・地域・学校・社会等)が大きく関わり、早さも人により様々です。

 体を鍛えるためにはいろいろなトレーニング方法があって、体を強くしたい人は必ず何かやっていますが、心を鍛えるために何かトレーニングをしている人はまずいないでしょう。それは必要ないからです。何故なら、日常生活を生きていくこと自体が心のトレーニングになっているからです。

 誰でも、自分の心の思うままに他人の心が動いてくれればいいと思っているものです。しかし心は世界中の人の数だけ存在しています。それぞれが思う通りになることはとても不可能です。隣の一人の人の心も思い通りにはできないのが現実です。そのような、思い通りにならない人生を思い通りにしようと願うのですから、ストレスを感じない方が不思議です。そのストレスをどう乗り切るかを考えることで、心は毎日鍛えられているのです。

 さて、毎日貯まる一方のストレスを発散するためにはどうしたらよいでしょうか。そのために遊びや趣味があります。これは人類の偉大な発明といってもよいし、本能の一つといってもよいでしょう。これらは自分の思う通りにできますから、大いにストレスを発散できます。それを忘れた人が心の不調に陥るといっても過言ではありません。うまく遊びや趣味の時間を生活のかなに取り入れましょう。

 もう一つの方法は、思う通りにならない他人の心のことは忘れて、自分自身の心を変えることです。どのように変えるかは人それぞれですが、要はストレスが減るように変えればよいのです。イソップ物語に”すっぱいブドウ”というお話があります。一匹の狐が、通りかかった道の脇にたわわに実ったぶどうの木を見つけます。採ろうとしますがいくら飛び上がっても手が届かずあきらめます。そして「どうせあのブドウは酸っぱくて食べられたものじゃない」と言い捨てて行ってしまいました。この狐は、ブドウを食べられなかったことを、くよくよと思い悩むことはもうなかったことでしょう。このように、思い通りにならなかったことに対して、自分の都合のよいように理由付けすることを、精神分析の言葉では「合理化」と言います。

 心が不調な時は、心の成長を促されている時だと考えて、自分なりの工夫をするとよいです。




           ナマケモノの親子